松原にはかつて19軒もの鍛冶屋が存在し、それぞれが製品の製造元を示すために銘を刻んでいました。
田中鎌工業の銘「松原周作」は、創業者・田中周市の技と志を刻んだ証です。銘は『SHU』へと姿を変え、その情熱は今もなお受け継がれています。
550年続く松原鎌の歴史を、大村工業高校の高場正喜先生(昭和42年作成の資料)をもとに紹介します。
― 中世 ―

・1185年:壇ノ浦の戦いで平家が敗北
・刀匠 :並衡行泰が日向へ逃れる
・1474年:その子孫が大村(松原)に移住し鍛冶を開始
・八幡神社で「月型の鎌」を作り、松原鎌が誕生
松原は水・木炭に恵まれた鍛冶向きの土地で、安来産の玉鋼を使い、刀鍛冶の副業として鎌作りが広まりました。
― 近世 ―

八幡神社の別当へ技術が受け継がれ、やがて松原姓、のちに伊東家が宗家となりました。ここで修業した職人たちは各地へ独立し、松原鎌は広がっていきます。
戦乱の終息後は刀から生活道具へと転換し、鎌づくりが本業となりました。
江戸時代には炭焼きや他地域の職人を招いて技術を高め、生産も拡大。天保期には多くの鍛冶屋が集まり、品質向上の組合も結成され、松原鎌は各地へ流通する産地へと発展しました。
― 現代 ―

昭和に入ると機械化が進み、生産効率が向上。最盛期には年間14万丁を生産し、戦時中は農具製造や軍刀の下請けも担いました。
しかし戦後は需要減少や後継者不足により衰退し、かつて9軒あった工場も現在では3軒に減少。現在は鎌から包丁へと主力が移り、規模を縮小しながら受け継がれています。
明治・大正時代、仕事は早朝から夜遅くまで続き、親方や職人が集まり簡単な食事をとって作業を始めていました。
家族総出で柄付けを手伝うなど、子どもも大切な働き手。職人たちは仕事量を競いながら工夫を重ね、ものの少ない時代ならではの技術と知恵を磨いていました。
子どもの頃、夕方には柄付けを手伝いながら、父母のグラインダー作業の火花を眺めていました。 物の少ない時代、ねじ一本も大切にし、「締めたり緩めたりを繰り返す」という父の教えは、今の仕事の原点となっています。
現在の鋼は品質が安定していますが、昔はばらつきがありました。 職人はグラインダーの火花の色や散り方で鉄の質を見極めていました。 今でも白紙鋼・青紙鋼・黄紙鋼など、鋼材ごとの違いを経験で判断しています。
時代の流れとともに松原の鍛冶屋は減少しましたが先人の技術と想いを受け継いでいきたいと考えています。
「包丁より鎌は切れんばと」という父の言葉の通り、本当に切れる刃物づくりの大切さを学びました。
刀から鎌、そして包丁へと受け継がれてきた刃物は、人々の暮らしと文化を支えてきたものです。
家族が笑顔になれる食卓を支える道具として、これからも「物を大切にする心」が伝わる刃物を作り続けていきます。
田中鎌工業有限会社 四代目 田中 勝人